2013年3月6日水曜日

2/24 哲学カフェまとめ

2/24(日)に哲学カフェを開催しました。

直前でキャンセルが相次ぎ、一時は開催が危ぶまれましたが
最終的に2名の方が集まってくださいました。

テーマは『「責任をとる」とはどういうことか?』でした。

「責任がある」ということと「責任をとる」ことの違いや、
「何をすれば責任をとったと言えるのか?」という条件の話など、
様々な論点が出されました。
中でも進行役の印象に残ったのは、
「責任をとる」ということを考えるためには、
それに対して「納得する」側や「許す」側を考えることも必要だ、という指摘です。

雪の降る寒い日でしたが、ゆったりとした探求の時間を過ごすことができました。

次回の哲学カフェは3/24(日)開催予定です。
詳細は追ってブログにアップします。

進行役 やまもと

2013年1月27日日曜日

2/24(日)に哲学カフェを開催します。

2/24(日)哲学カフェを開催します。

どなたでもお気軽にご参加ください。

日時:2/24(日)15:00-17:00
場所:ギャルリーオー(http://gallery-o.net/index.html)
料金;無料(カフェでのオーダーをお願いいたします。)

テーマ:「責任をとる」とはどういうことか?

参加申し込みは以下のフォームからどうぞ。

1/19(土)アート哲学カフェ まとめ

1/19(土)で京都で行われたアート哲学カフェのまとめです。
雅景錐でのツイッター実況のログ(http://togetter.com/li/441849)をもとに、
少し追記する形になっています。


進行役:哲学カフェでは結論は出ません。「共に考える場」であり、自分の言葉で自由に語り合う場です。まず、詫摩氏の作品を見て、率直にどう感じたか、ご感想をお聞かせください。

A:線が丁寧に引かれており、作者は几帳面だと感じた。

B:モノクロでシンプルな絵であり、水墨画に似ていると感じた。

C:描き方に規則を感じる。規則がはっきりあるという点では、作品の終わり方が決まっている絵でもある。

D:線は、感情の揺れ動きを表現しているのではないか。漫画でも、人物の感情を表すのに線を効果的に使う。

絵を観ながら http://t.co/7f4Gme6n

C:この展示には、サイズもバラバラの壁に掛けられた複数の絵画がある。しかし、よく観ると作品中に表現されている水平線の位置が、全て同じ位置にくるように展示されていることに気付く。

進行役:この作品の線には、規則的な要素と、感情に訴える曖昧な要素が同居している。 
では、「逃走の線」の「線」とは何だろうか。そもそも『線』について、普段私たちはどんなイメージを持っているだろうか。

(出てきたイメージ)「輪郭線」「境界線」「心理テスト」「決定」「否定」「『点』の集まり。作品は線が大量に集まって『面』のように見える」「繋がり」「直線は正確性を表す」「地平線」「アールヌーヴォーの曲線」


進行役:日常における線のイメージを再確認することで、作品の見え方は変わっただろうか?

C:リヒターの曖昧さを思い出した。風景の上から線が重ねられることで、『線』が安心感を拒否しているように見える。これが、「逃走」の意味なのかな、と感じた。

B:始め作品を見た時は、雨が降っているように見えた。上から下に流れる重力を感じる。黒=重いのが上、白=軽いのが下なので不安定感を感じる。

進行役:今までの話し合いを踏まえて、改めて作品に関して気づいたとことがあればどうぞ。

A:黒い部分の奥が見えないように感じる。その見えない部分が怖い。

C:作品ごとの関係性は?元々具体的だった絵が、近作になるにつれて単純化している。

B:はじめは作品の時系列が逆だと思った。なぜこんな進化をしたのか?

A:はじめはこの作品はまぶたを通してみているのかなと思った。何かから逃れようとして現実逃避で目をつぶっても、残像は消えない。作品の時代が新しくなるにつれて、その残像が濃くなっているように感じる。

B:『逃走』と聞いて、繋がる線に追いかけられる感じがした。新しい作品になるほど、だんだん逃げる隙がなくなっていく感じ。それでも線がある限り逃げることはできる。

進行役:どうしても「逃走」のイメージに捕われてしまうので、作品に新しいタイトルを付けてみよう。
あなたならこの作品にどういうタイトルをつけるか。

D:「光と闇」とか正反対のイメージの言葉。
B:「止まない雨」
C:「混在」
A:「衝突」
進行役:「境界」
(その他、「幽玄」「風景」など)

進行役:自分が付けたタイトルと、『逃走の線』というタイトルは結びつくか。
例えば、『衝突』と『逃走』は真逆のイメージのように思えるが。
では、「逃走の線」とは?最後にみんなで考えたい。

C:作品の背景を知りたい。

進行役:作家のインスピレーションはドゥルーズから来ている。「逃走の線」もドゥルーズの用語である。「逃走の線」とは、既存の領域を超え、未知の領域へ飛び出そうとする創造的な思考の運動のことを指す※。そこでの『逃走』とは、必ずしも否定的な意味ではない。

B:逃げる視点ではなく追いかける視点からこの作品を見ることもできるのでは。

進行役:時間が来てしまった。最初に見た時と今との見え方の違いは?

D:ずっと見ていると線そのものが動いているように見える。

A:『線』に集中しすぎて一本一本がハッキリ見えて来た

進行役:この作品の白い点は何か?

B:逃げるのを止めているように見える。

D:安心感がある。

C:最新作で、この白い点は増えているが、今後どういう進化をして行くのか気になる。
最新作では上下の境がよりはっきりして来た。
 http://t.co/ljMldxAh


進行役:本日の「アート哲学カフェ」はこれで終了。話し合ってスッキリした点もあれば、益々モヤモヤした点もあるかもしれません。今回の話し合いで、何かを持ち帰ってもらえれば幸いです。


(以上)

※「逃走線」は、『千のプラトー』中に出てくる用語。
解説はたとえば、ライダー・デュー著『ドゥルーズ哲学のエッセンス』(中山元訳、新曜社)を参照。

2013年1月5日土曜日

1/19(土)に京都でアート哲学カフェを開催します。

1/13(日)のびわこ哲学カフェの情報はこちら

1/19(日)に、びわこ哲学カフェ進行役やまもとが
京都 北野天満宮近くのギャラリーで
アート哲学カフェを開催いたします。

お近くにお住まいの方、お時間のある方はぜひご参加ください。

以下詳細です。

◾アート哲学カフェ『逃走の線』


・日時 1/19(土)19:00〜21:00
・場所:雅景錐(http://gakeigimlet.org/
・参加費:無料(会場でのワンドリンクオーダーにご協力下さい。

・紹介文  :詫摩昭人氏の個展『逃走の線』を鑑賞後、
                    作品の持つメッセージや関連するテーマについて語り合う場を設置します。
                    アートについて/アートの中で語り合うというこの場では、参加者が主役です。
                    様々なテーマについて、共に探求を深めてみませんか。
                   ※詫摩氏本人は参加されません。

参加申し込みは雅景錐HPの他、以下のフォームからも申込むことができます。








2012年12月29日土曜日

1/13(日)に哲学カフェを開催します。

2013年最初の哲学カフェを1/13(日)に開催します。
どなたでもお気軽にご参加下さい。

日時:1/13(日) 15:00-17:00
場所:ギャルリーオー(JR大津駅から徒歩9分)
※地図は「アクセス・会場紹介」のページをご覧ください。

テーマ:家族について
参加費:無料(会場でのワンドリンクオーダーにご協力下さい。)

参加申し込みは以下のフォームからどうぞ。


お問い合わせ:biwako.philosophycafe☆gmail.com(☆を@に代えてください。)
びわこ哲学カフェ(やまもと)


2012年12月4日火曜日

12/9(日)に哲学カフェを開催します。

12/9(日)に哲学カフェを開催します。
どなたでもお気軽にご参加下さい。

日時:12/9(日) 15:00-17:00

テーマ:「友情について」

会場:ギャルリーオー(JR大津駅から徒歩9分)
滋賀県大津市中央一丁目8-8
(http://gallery0.shiga-saku.net/)

※会場を変更しましたのでご注意下さい!


大きな地図で見る

参加申し込みは以下のフォームからどうぞ。
(おおまかな人数を把握することが目的なので、
本名でなくてもかまいません。)

2012年11月18日日曜日

11/10 哲学カフェまとめ


11/10に行われた、哲学カフェ「幸福を感じるとき」のまとめです。
今回は小金井哲学カフェとの共催で、小金井での議論をもとに、
幸福について考えていきました。書簡形式でのまとめを載せてみたいと思います。

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『びわ子とコガネイ氏の往復書簡』

お手紙ありがとうございます。
あなたのご意見をもとに、幸福について考えてみました。

まず、私は、幸福を考えるときに、「幸福かどうかは、個人の判断に応じて変わる」という
『判断説』と、「『本当の幸せ」というように、個人の判断に左右されない普遍的な形での幸せは存在する」という『存在説』の二つがあると考えました。
あなたはどちらかといえば「存在説」を前提にしているように思えましたので、
私は「判断説」に基づいて考えていきました。

・幸福は、幸福を感じる主体(本人)の主観のみに基づくと言い切れるか? 
 他人の目・判断の影響はあるのか?

→「判断説」に立てば、本人の主観のみに基づいて幸福は判断されるといえます。
 ただし、その判断の基準の中に、「他人からよく思われたい、承認されたい」という基準もあるので、他人の目はその基準に影響を与えます。


・幸福を感じる主体が感じる/体験する快と不快を総合的に勘案して、
快が不快を上回った状態が「幸福を感じるとき」といえるか。
・快/不快と異なる要因が幸福感をもたらすことは考えられないだろうか。
 あるとすれば、それは何か。

→二つまとめてお答えします。「幸福」と「快」は同じものとは限らないのではないでしょうか?
  確かに、「快」が幸福と結びつく例は数多くありますが、快・不快という身体的なレベルを超えて道徳や価値観も「幸福」をもたらすこともあると思います。
  

・幸福又は幸運の時間軸の関係。幸福は長いスパンで観た感覚、幸運は瞬間瞬間の体験?

→ご指摘にあったように、幸福は、長いスパンで続くもののことが多いように思えます。
 しかし、例えば「おいしいものを食べたとき」のように、幸福には瞬間的なものもあります。
 瞬間の体験を「幸運」とは簡単に言えないのではないでしょうか?
 あるいは、長いスパンで続く幸福と、瞬間の幸福は別のものなのでしょうか?

いままで考えたことをふまえて、私からあなたに聞いてみたいことがあります。

『幸福は、人生で一番価値があるものだろうか?』

世の中には、「幸せこそが最高の価値、幸せにならなければいけない」という考えがあるように思えます。みんな、自分が「幸福」であることを、あるいはそうでないことを周囲にがんばってアピールしているように見えるのです。
しかし、「幸福でなけらばならない」という強迫観念が、逆に幸福になることを妨げることもあるのではないでしょうか?

そもそも、『幸福は人生で一番価値があるものだろうか?』
あるいは、『私たちがは幸せでなけれなならないのだろうか?』という問いに関して、
あなたのご意見を聞かせてください。

びわ子より


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